2006年07月20日

A級戦犯、靖国合祀、昭和天皇が不快感――参拝中止「それが私の心だ」

A級戦犯、靖国合祀、昭和天皇が不快感――参拝中止「それが私の心だ」。
2006/07/20, 日本経済新聞 朝刊

 昭和天皇が一九八八年、靖国神社のA級戦犯合祀(ごうし)に強い不快感を示し、「だから私はあれ以来参拝していない。それが私の心だ」と、当時の宮内庁長官、富田朝彦氏(故人)に語っていたことが十九日、日本経済新聞が入手した富田氏のメモで分かった。
昭和天皇は一九七八年のA級戦犯合祀以降、参拝しなかったが、理由は明らかにしていなかった。昭和天皇の闘病生活などに関する記述もあり、史料としての歴史的価値も高い。
(靖国神社は3面「きょうのことば」参照)=関連記事3面、社会面に

 靖国神社に参拝しない理由を昭和天皇が明確に語り、その発言を書き留めた文書が見つかったのは初めて。
「昭和天皇が参拝しなくなったのはA級戦犯合祀が原因ではないか」との見方が裏付けられた。
 富田氏は昭和天皇と交わされた会話を日記や手帳に克明に書き残していた。
日記は同庁次長時代も含む七五―八六年まで各一冊、手帳は八六―九七年の二十数冊が残されていた。
 靖国神社についての発言メモは八八年四月二十八日付で、手帳に張り付けてあった。

 昭和天皇はまず「私は、或る時に、A級(戦犯)が合祀され、その上、松岡、白取(原文のまま)までもが。筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが」と語ったと記されている。
 「松岡」「白取」はA級戦犯の中で合祀されている松岡洋右元外相、白鳥敏夫元駐伊大使、「筑波」は六六年に厚生省からA級戦犯の祭神名票を受け取りながら、合祀しなかった筑波藤麿・靖国神社宮司(故人)を指すとみられる。
 さらに「松平の子の今の宮司がどう考えたのか、易々(やすやす)と。松平は平和に強い考(え)があったと思うのに、親の心子知らずと思っている。だから、私はあれ以来参拝をしていない。それが私の心だ」と述べている。
 この部分の「松平」は終戦直後に最後の宮内大臣を務めた松平慶民氏(故人)と、その長男で七八年にA級戦犯合祀に踏み切った当時の松平永芳・靖国神社宮司(同)を指すとみられる。
 同日付のメモの前半部分には、天皇誕生日(四月二十九日)に先立って行われた記者会見で、戦争に対する考えを質問されたことへの感想も記されていた。
 会見で昭和天皇は「何といっても大戦のことが一番いやな思い出」と答えているが、メモでは一部の政治家の靖国神社を巡る発言にも言及しつつ「戦争の感想を問われ、嫌な気持ちを表現したかった」と話していた。

 昭和天皇は靖国神社を戦後八回参拝したが、七五年十一月の参拝が最後となった。
参拝しなくなった理由についてはこれまで、「A級戦犯合祀が原因」「三木首相の靖国参拝が『公人か、私人か』を巡り政治問題化したため自粛した」との二つの見方があった。
現在の天皇陛下も八九年の即位以降、一度も参拝されていない。

 昭和天皇、昭和史に関する著書の多い秦郁彦日大講師の話 富田元長官の日記、メモを見ると、昭和天皇の信頼を得た虚飾のない律儀な人柄が感じられる。富田氏は政治的な動きをつつしむ気配りの人だったようだ。それだけにメモの信頼性は高いと思う。
 昭和天皇の靖国神社不参拝問題は関係者の証言が乏しく、憶測で議論が続いてきたが、今回、決定的とみられるメモが出てきたため、今後はこの「事実」を踏まえた議論になるだろう。

 故松平宮司は遺族の了解をとらず、天皇の内意も確かめず、秘かにA級戦犯を合祀してしまった。
東京裁判を全否定する松平宮司の信念はともかく、必要な手順を踏まずにまつるべきではなかった。


靖国神社(きょうのことば)
▽…1869年(明治2年)、戊辰戦争の政府側戦死者を慰霊するため、東京招魂社として創建。79年に靖国神社に改称。
祭神は近代以降の戦争での政府側戦没者などの「英霊」。
約246万6500柱(2004年10月現在)がまつられている。
▽…合祀(ごうし)は戦前、陸海軍が審査し、天皇の勅許で決定していた。
戦後は厚生省引揚援護局(当時)が戦地などで「公務死」とされた人の名簿を靖国神社に送り、合祀が行われた。
戦犯の合祀は1959年のBC級戦犯から始まった。
厚生省は66年、死刑あるいは公判・服役中に死亡したA級戦犯14人の祭神名票を送付し、78年に合祀された。




昭和天皇発言メモ――個人の思い超えた「声」、全体が第一級史料。
2006/07/20, 日本経済新聞 朝刊

 昭和天皇の言葉を書き留めた富田朝彦元宮内庁長官の記録メモで今、最も注目されるのは靖国神社参拝を巡る部分だろう。
一九八八年の、最後になった誕生日会見での記者団との問答について、言外に込めた考えを富田氏に説明しつつ語られた言葉だ。(編集委員 安岡崇志)=1面参照

 詔勅の形でしか一般国民に言葉が伝わらなかった戦前はもちろん、記者会見を行うようになった戦後も、昭和天皇の公式発言は極めて少なかった。
天皇の言葉が持つ力を自覚し、また自らを立憲君主と規定し「輔弼(ほひつ)の者の進言に従う」のを信条としたため、自分の考えを表明することは自然と抑制された。ひいきの力士さえ明かさなかったほどだ。
 ましてや当時、靖国参拝は政治問題だった。
国会議員らが首相に公式参拝するよう要請し、中国や韓国がそうした動きに反発していた。

 誕生日会見の記録を見よう。
 大戦についてのお考えを、との質問に「大戦のことが一番いやな思い出です」と述べるにとどめ、戦争になった最大の原因はとの問いには「そのことは人物の批判とかそういうものが加わりますから」と答えを避けている。
 この返答だけからは到底推し量れない昭和天皇の考えを、富田氏のメモは明かした。
靖国にまつられる意義とそこに特別な人物が参拝する意味を誰よりもよく心得るのは昭和天皇だ。
その立場で判断したA級戦犯合祀の当否は、天皇個人の思いを超えた重みがあろう。
 昭和天皇の真意をうかがわせる“生の声”は側近たちの日記や備忘録を通して聞くしかない。
中で、一九九〇年に『昭和天皇独白録』として公表された、外交官出身の寺崎英成御用掛の記録は、初めから聞き書きを目的にして「ご記憶を承った」とされ、内容、分量ともに出色である。
 『独白録』には「この際、言っておきたい」という勢いで語ったものが多くあり、そこも他の日記や備忘録にない特徴だが、富田氏の記録にはメモでありながら同種の勢いを感じる言葉が、特に腸の手術を経た八八年の記述に現れる。
 靖国問題のほかに皇族や新旧の政治家の人物評を交えた、言葉と思いは最晩年の昭和天皇が意図して富田氏に託したのか、富田氏が努めて細かくメモをとったのか。富田氏の手控えは、粉飾や主観の混入を感じさせない書きぶりで、全体が第一級の現代史史料である。



昭和天皇発言メモ――合祀巡る論議に一石。

 明らかになった昭和天皇の発言はA級戦犯の靖国神社への合祀(ごうし)の是非や、分祀論の行方に一石を投じそうだ。
 靖国が合祀を決めたことは一九七九年四月に表面化した。
中韓両国はさほど反応せず、大平正芳首相らは参拝を継続。転機は六年後に訪れた。
 「戦後政治の総決算」を掲げた中曽根康弘首相は八五年の終戦記念日に初の公式参拝に踏み切った。中韓は猛反発。政府は何らかの対応をせざるを得なくなった。
 分祀論の発端は同年十月の自民党の金丸信幹事長の発言だ。
 「乃木希典大将や東郷平八郎元帥がまつられておらず、東条英機がなぜまつられているのか」
 板垣正参院議員が分祀へと動いた。
父はA級戦犯の一人、板垣征四郎大将。日本遺族会の事務局長も務めていた。
 戦犯遺族でつくる「白菊遺族会」の木村可縫会長(木村兵太郎大将夫人)と相談し、遺族が合祀取り下げを申し出るのが穏当と判断。「政府を苦境に立たせる事態は故人の遺志に反することは推察に難くない」とする書面をまとめた。
 だが、東条元首相の遺族が賛同せず、靖国の松平永芳宮司も難色を示し、構想は頓挫。中曽根氏は参拝を見送ることで事態を収めた。

 ただ、他に有効な手だてがあまり見当たらないこともあり、与野党を問わず、分祀論は根強くある。
 小泉政権では山崎拓氏が幹事長当時に水面下で神社に分祀を勧めたとされる。
遺族会会長の古賀誠氏は昨年の同会の会合で「近隣諸国への配慮が必要」と訴えた。

 中国も分祀を最善の選択とみているふしがある。
王家瑞共産党対外連絡部長は十九日、分祀論について古賀氏に「日本国内で受け入れられるのであれば、一つのよい方向だ」と伝えた。
 もっとも靖国側は一度まつられた霊を分けたり、移すことは教義上できないとの立場だ。
 麻生太郎外相は最近、靖国を国の施設にする案を提起。
政府が宗教法人に分祀を働きかけると違憲になりかねないとの事情を考慮したようだ。
ただ、宗教法人の資格返上を促すこと自体が違憲との見方もある。
 中川秀直政調会長は身元不明の遺骨を納める千鳥ケ淵墓苑の拡張を提唱。
山崎氏や福田康夫氏が主張する国立追悼施設を新設する案より抵抗が少なそうで、いずれは千鳥ケ淵を追悼の中心施設に据え、中韓の理解を得る思惑が見え隠れするとの指摘もある。
 ただ、どの方法も実現へのハードルはかなり高い。
靖国参拝を前提にした中韓との関係改善は容易ではない。



昭和天皇の意志、明確に――時代の貴重な証言、富田元長官、日記や手帳に。
2006/07/20, 日本経済新聞 朝刊

 「だから、私はあれ以来参拝していない。それが私の心だ」――。
元宮内庁長官の富田朝彦氏(故人)の手帳には、靖国神社に参拝しない昭和天皇の明確な意志が記されていた。
富田氏は日記、手帳に晩年の天皇の言葉を数多く書き残している。
富田氏の人柄をよく知る関係者は「事実を曲げることは考えられず、メモの信頼性は極めて高い」と口をそろえる。(1面参照)

 富田氏は警察官僚出身で、警察庁警備局長として一九七二年の浅間山荘事件を指揮。内閣官房調査室長を経て、七四年に宮内庁次長に就任。七八年、宇佐美毅長官の後任として、戦後三代目の長官に就任した。
 八七年には、歴代天皇では初めてとされる昭和天皇の開腹手術を決断。
八八年の退任後は同庁参与、国家公安委員を務め、二〇〇三年十一月、八十三歳で死去した。
 富田氏と親交が深かった作家の丸谷才一氏は「篤実優秀な能吏でした。会話でも文章でも、話を面白くするとか、誇張するとか、そんなことは絶対できないたちの人」と評する。
メモについては「そういう方の手帳ですから、全面的に信用できる。本当はもっといろいろ秘話があるのに、書き留めるに値しないと思ったのでしょう」。
 さらに「富田さんがこれは大事だと判断して書き残したのですから、靖国神社の件は深刻。同時代についての実に貴重な証言です。昭和天皇の反応は極めて妥当で適切だと思う。
富田さんは昭和天皇を頭のよい立派な方だと話していました。敬愛し、親愛の念を抱いていました」と言う。
 富田氏の後任として宮内庁長官を務めた藤森昭一氏は「これらのメモは公表されることを想定していないものだと思う。内容についてはコメントする立場ではない。ただ、富田さんがものごとを脚色したり、ねじ曲げて語る人ではないことは確か」と話している。



筑波宮司、「A級戦犯は後回し」、生前、長男に語る。

 一九七八年、靖国神社へのA級戦犯十四人を合祀(ごうし)し、富田氏のメモの中で昭和天皇が「親の心子知らず」と評した松平永芳宮司(故人)は生前、月刊誌で「すべて日本が悪いという東京裁判史観を否定しない限り日本の精神復興はできない」などと合祀の理由について述べている。
 松平宮司は「日本とアメリカが完全に戦闘状態をやめたのは(サンフランシスコ平和条約が発効した)昭和二十七年(一九五二年)四月二十八日。
戦闘状態にあるとき行われた東京裁判は軍事裁判で、処刑された人々は戦場で亡くなった方と同じ」と合祀の正当性を主張していた。
 一方で、昭和天皇が「慎重に対処してくれた」と評価した故筑波藤麿宮司は皇族出身で、六六年に当時の厚生省から祭神名票を受け取りながら合祀を差し止めた。このため、筑波宮司は天皇の気持ちをくみ取っていたのではないかとの見方もあった。
 合祀を差し止め続けたことについて、筑波宮司の長男の常治さんは「父から天皇の気持ちについて聞いたことはない。父は『B、C級戦犯は被害者なのでまつるが、A級は戦争責任者なので後回しだ。自分が生きているうちは合祀はないだろう』と言っていた」と話している。



作家の半藤一利氏の話、率直な言葉、息をのんだ。

 「昭和天皇独白録」の出版にたずさわった作家の半藤一利氏の話
 思いもかけぬほど率直に、かつくわしく書かれた昭和天皇の言葉に、本当に息をのんだ。まさしく信頼できる新史料である。
 「昭和天皇独白録」にある、日独伊三国同盟に関連しての松岡洋右元外相評の一つ、「おそらくはヒトラーに買収でもされたのではないかと思われる」、そして三国同盟締結後の天皇の感想などと重ねてみると「私はあれ以来、参拝していない。それが私の心だ」の重みがずっしりと感じられる。
 天皇に信頼されていた富田元長官は、よくぞ貴重にしてものすごい史料を残しておいてくれたものだ。


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 私は 或る時に、A級が合祀されその上 松岡、白取までもが
 筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが
 松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々と 松平は 平和に強い考があったと思うのに 親の心子知らずと思っている
 だから、私あれ以来、参拝していない それが私の心だ(原文のまま)

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首相、昭和天皇発言メモ、「参拝判断影響せず」、「在任中」には触れず。
2006/07/21, 日本経済新聞 朝刊

 小泉純一郎首相は二十日、昭和天皇がA級戦犯合祀(ごうし)に不快感を示していたことを記録した故富田朝彦元宮内庁長官の日記・手帳(富田メモ)に関連して、自らの靖国神社参拝への影響を「ありません」と強調した。首相官邸で記者団の質問に答えた。
(関連記事2、3面、社会面、特集33面に)

 九月末までの首相在任中に参拝するかどうかについては「行ってもいいし、行かなくてもよし」と言及を避けた。「適切に判断する」とするこれまでの表現は使わなかった。
 富田メモについて首相は「陛下にも様々な思いがおありになったんだと思う」と指摘。A級戦犯合祀後に昭和天皇が靖国神社を参拝しなかったことに関しては「私がどうこう言う問題ではない」と述べるにとどまった。
 A級戦犯の分祀(ぶんし)論を巡っては「議論は結構」とする一方、「こうあるべきだと政府としては言わない方がいい」との考えを示した。


首相の発言要旨。

 「(富田メモの)詳細はわかりませんが、心の問題ですから。陛下も様々な思いがおありになったと思う。(A級戦犯の合祀後、昭和天皇が靖国参拝しなかったのは)それぞれ人の思いがあるから私がどうこう言う問題でないと思う。(天皇陛下は)参拝されてもいいし、しなくてもいいし。自由ですから」
 「(自分の靖国参拝への影響は)ありません。それぞれの人の思いですから。心の問題ですから。強制するものでもない。行ってもいいし、行かなくてもいいし。誰でも自由ですね」
 「(理想の追悼施設は)どういうものか様々な意見があるのは承知している。今、なかなか結論が出にくい。一宗教法人(の靖国神社)に(A級戦犯の分祀について)こうあるべきだと政府としては言わない方がいいと思う。議論は結構です」

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分祀論、総裁選に影響も――自民の議論加速、新施設など異論も強く。
2006/07/21, 日本経済新聞 朝刊

 故富田朝彦元宮内庁長官の日記・手帳(富田メモ)はA級戦犯の分祀(ぶんし)論や九月の自民党総裁選の行方にも影響を及ぼしそうだ。分祀論には異論も根強いが、与党内の議論加速は必至。「不出馬説」が広がりつつある福田康夫氏を巡っても、小泉純一郎首相が靖国神社に参拝すれば「擁立論」が盛り返す可能性がある。焦点は首相の靖国参拝の有無とそれをうけた世論の反応だ。

 昭和天皇がA級戦犯の合祀(ごうし)に不快感を示していたことが明らかになり、自民党内で「A級戦犯分祀論」や新たな追悼施設建設を巡る議論が勢いを増す気配だ。
 山崎拓氏は二十日、記者団に「A級戦犯を分祀するか、特定宗教によらない追悼施設をつくるかでないと問題は解決しない」と表明、加藤紘一氏も「分祀論が勢いづく」と同調した。久間章生総務会長も記者会見で「合祀すべきでなかったと今でも思っている」。公明党の神崎武法代表も「今後は分祀論が強まる」と期待をあらわにした。分祀論は日本遺族会の古賀誠会長らも個人的な意見として主張している。靖国神社を非宗教法人にして国家が管轄すべきだとの意見も分祀を視野に置いた意見だ。ただ靖国神社は「霊は一体不可分」と分祀を否定している。
 国立・無宗教の追悼施設の新設論の背景にはそうした事情がある。最近では自民党の中川秀直政調会長らが、引き取り手のない海外の戦没者の遺骨を集めた千鳥ケ淵戦没者墓苑(東京・千代田)の拡充構想を提唱した。党墓苑整備プロジェクトチームは同日、現地を視察し、靖国の議論とは切り離して具体案を検討する方針を確認した。
 ただ、自民党内には靖国神社が形骸化するとして、分祀や新施設に反対する意見も根強い。
 自民党の「首相の靖国参拝を支持する若手国会議員の会」は同日の会合で「国立追悼施設と千鳥ケ淵戦没者墓苑は靖国神社とまったく違う」との見解を確認。出席者からは「不当な東京裁判を是認することになるので分祀は認められない」(稲田朋美氏)との声も出た。
 自民党内で早期に方向性を出せるかは不透明な情勢で、武部勤幹事長は二十日、「政府や政治家があれこれ言うべきではない」と強調した。



福田氏、広がる不出馬説、「首相参拝」見極め。
2006/07/21, 日本経済新聞 朝刊

 富田メモは一見、小泉首相の靖国参拝に批判的な福田氏に有利と見えるが、最近の福田氏にはむしろ「不出馬説」が強まっている。安倍晋三官房長官らが出馬の意向を固めるなか、沈黙を守り続けているためだ。福田氏は二十日、富田メモについても「私がコメントすべきではない」と慎重な姿勢を崩さなかった。
 自民党の津島、丹羽・古賀、山崎、高村四派の会長らが二十日夜、都内で開いた会合で「福田氏は総裁選に出馬しない」との見方が相次いだ。ポスト小泉候補を招いて二十八日に開く「東京ブロック大会」に福田氏が欠席の意向を伝えていたことが分かり、こうした見方に拍車をかけている。
 一方で「福田氏は首相の靖国参拝を見極める」との見方も根強い。終戦記念日の八月十五日に首相が参拝すれば再び党内の「反小泉・安倍」勢力が勢いづく可能性がある。「総裁選は一カ月あれば十分」とする福田氏の最終判断はまだ先とみられる。
 安倍氏は二十日午後の記者会見で「国のために戦った方々のためにご冥福をお祈りし、尊崇の念を表する気持ちで参拝してきた。その気持ちには変わりはない」と語った。だが、首相の靖国参拝を支持してきた安倍氏の立場は微妙だ。
 富田メモが明らかになったことで、小泉首相の靖国参拝に一定の支持を示してきた世論がどうなるか現時点では読み切れない。「首相の靖国参拝を支持する若手国会議員の会」では二十日、「富田メモの影響で安倍氏は苦しい立場に追い込まれるのではないか」との意見が出た。



首相の靖国参拝、野党は中止要請。2006/07/21, 日本経済新聞 朝刊

 富田メモを巡り野党各党からは二十日、小泉純一郎首相の靖国参拝を中止するよう求める声が相次いだ。民主党の鳩山由紀夫幹事長は都内で記者団に「一番戦争に後悔の念を持っていた天皇陛下の意思だけに大事にすべきだ。首相はこの事実を重く受け止めてもらいたい」と語った。

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昭和天皇発言メモ、「靖国」こだわりにじむ首相――8月15日参拝、焦点。
2006/07/21, 日本経済新聞 朝刊

 故富田朝彦元宮内庁長官の日記・手帳(富田メモ)が明らかになったことで、小泉純一郎首相の靖国参拝の行方が改めて焦点に浮上してきた。自民党内などでは、九月退陣を前に最後の機会となる今年こそ、首相は終戦記念日の参拝に踏み切るとの見方が根強い。参拝を警戒する中韓などは、富田メモを受けた首相の対応や日本国内の動きを注視する構えだ。(1面参照)

 首相は二十日、記者団から富田メモが自らの靖国参拝に及ぼす影響について聞かれると「ありません」と言い切り、参拝へのこだわりをにじませた。
 「八月十五日参拝」は二〇〇一年の総裁選での公約だった。だが同年四月の就任以来、毎年一回の参拝を続けてきたものの、終戦記念日には一回も参拝していない。
 就任後初の〇一年は八月十五日の参拝を計画したが、周囲の説得を受けて十三日に前倒し。その後は〇二年が四月の春季例大祭、〇三年と〇四年が一月、〇五年は十月の秋季例大祭と、いずれも終戦記念日を避けてきた。
 八月十五日は中国や韓国にとっては「日本の植民地支配から解放」された記念日。首相が参拝すれば猛反発を招くのは必至だ。
 首相も随所に配慮を示してはいる。昨年十月は、初めて「内閣総理大臣 小泉純一郎」と記帳せず、本殿にも上がらずに拝殿前で参拝するなど「私的参拝」の色合いをにじませた。
 背景には〇五年九月の大阪高裁判決などで首相の靖国参拝に違憲判断が出たことに加え、周辺諸国の反発を和らげたいとの意向もあった。
 しかし中韓などの反発は変わらず、首相は次の参拝時期などを問われると「適切に判断する」と受け流すのが慣例となった。
 「八月十五日参拝説」が根強い自民党内では、富田メモが明らかになった後も「首相の行動に影響を与えることはない」(伊吹文明氏)「(影響が)全くないわけではないが、首相自身が判断すること」(二階俊博経済産業相)などの意見が目立つ。
 首相は国会答弁でA級戦犯について「戦争犯罪人だと認識している」と言明。同時に「私が参拝するのは特定の人ではなく、心ならずも亡くなった人たちだ」と強調することで、A級戦犯合祀(ごうし)と自らの参拝の問題を切り離そうとしてきた。中韓の批判には「何回行こうが個人の自由だ」と気色ばむことも少なくない。
 周囲は「もし中韓の要望をのめば『日本は言いなりになる』と誤解を与え、次の政権を縛ることを懸念している」と心情を解説する。
 最終的な判断はこれまで同様、「首相自身が当日に決める」(首相周辺)ことになりそうだ。



昭和天皇発言メモ、「靖国」こだわりにじむ首相――中国「障害除去を希望」。
2006/07/21, 日本経済新聞 朝刊

 昭和天皇が靖国神社のA級戦犯合祀(ごうし)に強い不快感を示したとする元宮内庁長官のメモについて、中国外務省は二十日、「中日関係の発展にとっての障害が早期に除去されることを希望する」とのコメントを出した。メモへの直接的な評価は避けながら、靖国問題の解決へ期待をにじませた。
 中国指導部は小泉純一郎首相が八月十五日の終戦記念日に参拝する可能性や、次期首相の靖国問題への対応を懸念しており、メモが日本国内にどんな影響を与えるか注目しているとみられる。
 一方、韓国メディアはA級戦犯の分祀論争の行方や、自民党総裁選、アジア外交への影響など多角的な視点から取り上げた。
 京郷新聞は電子版で「(今回のメモは)戦犯合祀の正当性を巡る靖国論争の流れを変える決定的な変数になりそうだ」との見方を示した。
 二十一日付朝刊(早版)では複数の韓国紙が「小泉首相が八月十五日に靖国参拝を強行するかどうかが注目される」と指摘。毎日経済新聞は「強行すればそれを擁護してきた安倍晋三官房長官が打撃を受ける可能性がある」との外交筋の分析を紹介した。
 英ロイター通信、仏AFP通信は二十日、相次いで「昭和天皇が靖国神社のA級戦犯合祀に不快感を持っていたとのメモを日本経済新聞が報じた」と伝えた。米ウォールストリート・ジャーナル紙(電子版)も同日、日本経済新聞の報道を転載する形で、靖国神社参拝を巡る昭和天皇の発言を報じた。

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(靖国Q&A)A級戦犯の合祀――「断罪された殉難者」の扱い
2006/07/21, 日本経済新聞 朝刊

 Q A級戦犯とは。
 A 第二次世界大戦後の極東国際軍事裁判(東京裁判)で侵略戦争を引き起こしたとして「平和に対する罪」で有罪判決を受けた指導者たち。起訴されたのは東条英機元首相ら二十八人で、靖国神社はこのうち絞首刑などに処された十四人を一九七八年(判明したのは翌年)に合祀(ごうし)した。
 Q 靖国神社にまつられているのは戦死者ではないのか。
 A 基本的には戦死や戦病死した軍人・軍属。西南戦争、日清戦争、日露戦争と戦乱が起きるたびに対象者が増えた。現在の祭神総数は二百四十六万柱を超える。A級戦犯は厳密な意味での戦死者ではないが、「戦勝国に一方的に断罪されて国に殉じた昭和殉難者」として扱った。
 Q 合祀までに時間がかかったのはなぜか。
 A 靖国神社は戦後、旧厚生省が「祭神名票」として送った未合祀者名簿を基に合祀を進めた。六六年には厚生省からA級戦犯十四人の祭神名票が届き、靖国神社の「崇敬者総代会」は七〇年に合祀の方針を決めたが、時期は宮司に一任。筑波藤麿宮司は合祀を止めたが、松平永芳宮司が七八年に就任すると、合祀に踏み切った。
 Q 天皇は靖国神社に参拝していたのか。
 A 昭和天皇は戦後八回参拝したが、七五年十一月を最後に途絶えた。天皇陛下も八九年の即位以降、一度も参拝していない。

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新史料に驚き・戸惑い――識者の見方、戦争責任問題影響か、一部戦犯への違和感?。
2006/07/21, 日本経済新聞 朝刊

 靖国神社のA級戦犯合祀(ごうし)に不快感を示す昭和天皇の言葉を記したメモについて、歴史研究家などの識者や遺族らは二十日、驚きや戸惑いなどさまざまな思いで受け止め、波紋が広がった。
 御厨貴・東大教授(日本政治外交史)は「これまでも側近が残した史料の中で、昭和天皇が靖国神社を参拝しなくなった理由はA級戦犯が合祀されたからだという説はあった。
今回の史料で、その議論に決着がついたといえる」と指摘。「宮内庁長官が残したメモであり、信ぴょう性は非常に高い。このような形で公表されることを前提とせずに、昭和天皇が発言したものだろう」と指摘する。
 「昭和天皇は、東京裁判で東条英機元首相らに責任を背負わせる形になったことにじくじたる思いを抱きながらも、戦争責任に決着をつけた思いでいたはず。しかし、A級戦犯が合祀されたことで決着したものが崩され、不快な気持ちを抱いたのだと思う」と推測。
 「特に当時の外交を主導していた松岡洋右元外相らの合祀に対して抱いていた不快感を話したのではないか」と指摘し、「首相の靖国参拝推進派にとってはショックな話で、今後のA級戦犯分祀論にも影響を及ぼすだろう」と話している。
 「皇位継承」などの共著があり、日本法制史が専門の所功・京都産業大教授は「いわゆるA級戦犯の合祀全般に不快感を示したかどうかは疑問だ。昭和天皇は東条元首相を評価しており、(開戦をめぐる)外交判断を誤った、との認識から、松岡元外相ら一部の人たちの合祀への違和感を話したのではないか」と推察する。
 さらに「昭和天皇は開戦決定を認めたことへの道義的責任を感じ、一般戦没者に対し、戦争遂行者と一緒に祀(まつ)ることへの申し訳なさを感じていたと思う。その心情が発言につながったのではないか」と話す。


A級戦犯遺族、不満の声も、信じられない/なぜ今の時期に

 遺族らは「今まで言われてきた理由と違う。信じ切れない」などと揺れる心情を漏らした。
 A級戦犯として処刑され、靖国神社に合祀(ごうし)された元陸軍大将、板垣征四郎氏の二男で日本遺族会顧問の正さん(82)は「靖国を巡っては(A級戦犯合祀論など)色々な論議があり、外交問題も様々ある。率直に言って『なぜ今の時期に』と疑問を感じる」と不満をあらわにした。
 「陛下が本当におっしゃったことなのか今も信じられない」と胸の内を明かす一方で「あるいは信頼する側近だけに内面の機微をお話ししたのかもしれない」とも。「そうだとしても、発表を予定されていないものを出すのは陛下の政治利用ではないか」と批判した。

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(社説)昭和天皇の思いを大事にしたい
2006/07/21, 日本経済新聞 朝刊

 昭和天皇が一九七五年を最後に靖国神社を参拝しなかった理由について、A級戦犯合祀(ごうし)に強い不快感を示し「だから私はあれ以来参拝していない。それが私の心だ」と語っていたことが、故富田朝彦元宮内庁長官のメモによって明らかになった。昭和天皇の意向が信頼性の高い具体的史料によって裏付けられたのは初めてである。
 小泉純一郎首相の靖国神社参拝をめぐって国内に賛否の大きな議論が渦巻き、この問題で中国、韓国との関係がぎくしゃくして首脳会談も開けない異常事態が続いている。新たな事実が明確になったことを踏まえ、靖国参拝問題を冷静に議論し、この問題を他国の意向に振り回されるのではなく、日本人自身で解決するよい機会にしたい。
 昭和天皇が靖国参拝を見送った経緯については、かねてA級戦犯合祀に不快感を抱いていたとの宮内庁関係者の証言が伝えられていたが、靖国参拝擁護派はこうした見方を強く否定し、「三木武夫元首相が七五年に私人の立場を明確にして参拝したため、天皇が参拝しにくくなった」と主張していた。
 今回の「富田メモ」によって昭和天皇の意向が明確になり、天皇が参拝しない理由を三木元首相のせいにした主張の論拠はほぼ崩れ去ったと言ってよい。
 昭和天皇がA級戦犯合祀に強い不快感を示したのは、過去の戦争への痛切な反省と世界平和への思い、米英両国や中国など諸外国との信義を重んじる信念があったためと推察される。そうした昭和天皇の思いを日本人として大事にしたい。
 A級戦犯が合祀された七八年以降、昭和天皇は靖国参拝を見送ったが、戦没者に対する哀悼痛惜の念はいささかも変わりはなかった。高齢にもかかわらず毎年八月十五日の全国戦没者追悼式には必ず出席し、哀悼の念と平和への思いをお言葉に託していた。
 戦没者に対して深い哀悼と感謝の念をささげることは当然のことであり、その点に限って言えば、靖国参拝も否定されるべきことではない。しかし、A級戦犯合祀は内外の理解を得るのが難しいのも事実である。中国、韓国の反発だけでなく、米欧の世論も厳しい目を向けていることを忘れてはならない。
 靖国参拝問題は小泉首相が言うように「心の問題」で単純に片づけられるものではない。昭和天皇の「心」の歴史的背景を重く受け止め、小泉首相をはじめ関係者が適切に行動することを切に望みたい。






特集――昭和天皇発言メモ、富田氏の日記(一部)
2006/07/21, 日本経済新聞 朝刊

 靖国神社のA級戦犯合祀(ごうし)に不快感を示す昭和天皇の言葉を書き留めた故富田朝彦元宮内庁長官の日記・手帳(富田メモ)は、靖国神社を巡る論議に大きな影響を与えると同時に現代史の重要な史料でもある。晩年の昭和天皇の言葉、エピソードなど、その一部を抜粋した。(1面参照)


戦いの日々、胸にしまい行動。

 ▼一九七六年
 六月二十八日
 那須より(両陛下の)お帰りの供奉(ぐぶ)のため黒磯へ。
 両陛下、ここ数日お元気に軽やかに長時間のご散策との由。昨日は付属邸中坪で夜鷹の親子鳥を見つけられ、子鳥を手にあげたら糞。いいよ、いいよ、帰ったら洗うよ、と侍従が困惑の一刻。

 ▼一九七七年
 一月二十八日
 一年ぶりで両陛下須崎へ。ご帰還供奉のため、昨二十七日夕出かける。
 約四十分、国内の情況や急に来日することになったイラン第一皇女一行のことなど説明申し上げているうちに、図をかくの要を感じ、指で机上に指を伸ばした処へ、「そうか」というので陛下の指が伸び、触れあったのには驚き、かつ恐縮した。温かいが庭いぢりをされたような素朴な指であった。

 ▼一九七八年
 九月十六日
 長官になって三ヵ月半。俺一人少なくとも毅然として在りたいとひそかに思い、この夏を過ごした。数えて見れば那須往復は七度。だいぶ那須になじんだ。両陛下にも近く又親しくお話できた。あのお人柄。戦いの日々―細川日記でも間接ながら知りうる―終戦から三十年。一人で胸にしまわれて行動されてきたのである。

 ▼一九七九年
 一月十四日
 暮れから陛下のお風邪であれこれと、しかし大事な行事はすべて執り行って頂き有難かった。
 行事が続くので、御前に出るのを機を図っていた。陛下も随分自重しておいでの御様子。八日に言上小一時間。天気よく芳菊の間から見渡す南庭に陽炎が立つよう。
 庭を背にされた陛下のお顔も明るい。ディズニーランドスマイル(御訪米時、ディズニーランドで気も軽く多くの人の中を縫いながら、小憩時に白人の少年が駆けよりその頭を触っておられた陛下の明るい笑顔)と私が呼ぶお顔。
 陛下のお風邪ご本復のご様子をお慶び申し上げると、長官はどうと仰せになる。記者等は長官が献上したのではと申しておりますと申し上げると、くっくっと忍び笑い。

 ▼一九八一年
 八月十七日
 吹上に赴き言上。午後より上野科学博物館で中国恐竜展行幸のお供。中国王暁雲臨時大使、田中(龍夫)文相ら出迎え。休館日を利用してゆっくりとお楽しみいただく予定。“サウルス”の種類に驚き、あの巨大な怪物にも竜脚類には草食のおとなしいのがいたと知りまた驚く。陛下は恐竜の絶滅の理由、爬虫(はちゅう)―両棲(りょうせい)―哺乳(ほにゅう)への経路、人類の誕生とその進化などのご注文があり、担当研究員の説明も熱が入っていた。
 八月二十日
 那須の供奉一泊。涼気うまし。湯元往復の散策。侍従、女官の話。それぞれに一人を楽しんでおいでだったと。皇后さまと侍医長、侍従、女官長ほか、午後一、二時間にぎやかにトランプをされ、皇宮警察の者たちの外回りしつつ、二階を見上げるくらいと。
 夜、短く言上。ラフなお姿。しかし、会見のことは気にしておられ、問うものは答えるよ、時々言えなくてもいいんならと。

 ▼一九八二年
 八月三十日
 陛下と約九十分。教科書問題に関連して韓国や中国へのお気持ちを大正末期、昭和初期の事実をふまえてお話し下さる。白い露が窓の外に渦を巻いていた。一月半位でお目にかかったが、すっかり回復されておられる。
 十二月二十八日
 御用納め。
 お話申し上げる。最後に本年は至らぬこと多くご念を煩わし恐縮しております、と申し上げたら、色々よくやってくれて満足していますと仰せがあり、更にそれでね長官と、また若干お話をする。何か大海原に向かって晴れた地平線を見る如き感を抱く。

 ▼一九八三年
 二月八日
 正午より東宮御所で両殿下、浩宮殿下のお招きで午さん陪伴。妃がすっかり明るくお元気で会話をリードされる。ここ数年、初めてのことであり、浩宮もご一緒にということもあったかもしれぬが、体調もよろしいように見受けられうれしくなる。
 歌会始のことや月並次の詠などの話から、それに先立って妃が長官はお歌はと問いかけられ、まさか歌と思ってつくったら大部狂歌にというわけにいかず、難渋は一応したが、三殿下がそれぞれの苦心を披露。
 三月は皇后様BD(誕生日)で花見とあり、どうしようか陛下にこの題のご意見をきこうかとの話も。浩さんは花見と一杯でいこうか、それはいいね、でもそれではと賑やか。それから映画のこと。E.Tを浩宮が試写で見てよかったというので、御所に借りて職員と見て面白かった。
 十一月九日
 レーガン大統領一行の来日。午後遅く歓迎行事やご会見。なかなか如才ない気の回るレーガン大統領。皇太子の訪米招待あり。政治と切り離すのに十日ばかり気を使ったが、まあまあその形で落ち着く。
 十二月十一日
 夜、須崎で言上。自らの進退についてを含めて申し上げる。長官の気持ち、やっと分かったとの仰せあり。

 ▼一九八五年
 一月三日
 陛下よりお召し言上。ティグラウンドに立ってドライバーショットを放てば浩然(こうぜん)の気は養えると話し出される。いろいろご気がかりのことも含めて諭される如く。五十分余り。若い皇族もこのお気持ちを汲めばと唯想う。
 七月三日
 警察庁長官の進講。彼もがんばって真面目に当面の治安について。陛下、誠に明晰に数ケのご質問あり。それには内心驚嘆せり。

 ▼一九八六年
 七月六日
 三日夕、徳川侍従長来室。お上より今日は長官の誕生日、おめでとうと伝えての仰せあり、お伝えしますと。昨二日の言上の折、この年になるまでお仕えさせていただき有難いことであります、と申し上げたことを今日がとの仰せになった。かたじけない思いであった。
 七月二十三日
 このところ高松(宮)さんのこと、靖国のこと、教科書問題などでお召し言上しきりである。
 何故か那須へ供奉した夕、国際連盟脱退時のこと、日米開戦前後のことなど、色々とお話を戴いた。東京はまだ暑いから十分に気をつけてねとのおいたわりのお言葉と共に忘れがたい。
 十二月八日
 四十五年を経た十二月八日。陛下とマッカーサーの記事が大きく紙面を飾るのみとなった。午前、陛下と約一時間、私の方からは南庭の冬、小春日和で、紅葉と常緑の木々の庭が眺められる。何かとお話申し上げたが、開戦の日のことはふれなかったし、陛下からもあえて何のお話もなかった。


平和確立「国民が努力」、売上税関係、どうなるか。

■一九八七年
 四月十日
 (天皇)「売上税関係、自民も割れておりどうなるか。先日、官房長官内奏は大変だろうがしっかり。それと身体を大事にしてと言っておいた」
 八月十日
 岸(信介)元首相の通夜へのお言葉について。卜部(亮吾)侍従より。「安保改定につき困難を排して貫く」との思し召しがあったが、侍従長、次長と協議。抽象的表現にした方がとの意見で、「総理として困難な時期によく務めを果たした云々」との案。了承す。
 九月二十四日
 経過順調。昨日、血圧、腸熱正常。夕方、腸部の張り。―措置。午後五時過ぎ、テレビで相撲を。今朝は気分もよろしいと言われ、またお腹が空いたなとも。午前十一時過ぎ、認証式を了された皇太子入室。数分間お話し。
 (昭和天皇は九月二十二日、腸の病気で開腹手術を受けた。当時は宮内庁病院で静養中)
 九月二十八日
 卜部侍従より。午前十時五十分。(陛下)召し上がりはなかなかに進捗せず。落ち着かれた。経口栄養剤クリニミール(吹上でも召し上がっておられた)を差し上げる予定。午後には椅子にと考えている。
 午前十一時四十分 安楽(定信侍従)次長 胸と腹のエックス線。今朝腹部の腫れが認められました。今朝三十六度台に下がる。尿管を外す。蓄積した体力が経口が少ないため低下した状態か。点滴千二百CC。昼にはクリニミールと野菜スープを考えている。


松岡までもが…易々と。

■一九八八年
 四月六日
 徳川(義寛)侍従長からの話。侍従長が天皇に言上の際、「摂政はどうする」とのお言葉あり。「浩宮(現在の皇太子さま)のこと(結婚)については、慎重には大事と思うが、慎重にすぎて好きな人がいなくなったり、徒に時を過ごしてもよくない。難しいと思うがよろしく頼む」
 四月十六日
 (富田)「今週一連の人事で拝謁に今日まで出ませんでしたが、何かご不自由は」
 (天皇)「忙しいであろうから、特に不便という程ではないが、あれこれも多少あるのでね」
 「只今多少のことをやっているというものの、以前とは大部控えている。弟たちのように太く短くがいいのか。高松(宮)さんはそう短くなかったが。細く長くがいいのか、考えることがあるよ」
 (富田)「国民は先の大戦のご対応始めについて陛下の御苦慮と大事の折りの明晰果断なご苦労を承知しており、既にお太い、太く長くお願い申し上げます。弱気なお気持ちに決しておなりになってはいけません」
 (天皇)「そうか、そうか」
 四月二十八日
 (天皇)「戦争の感想を問われ、嫌な気持ちを表現したかった。それは後で言いたい。そして戦後、国民が努力して平和の確立につとめてくれたことを言いたかった」
 (天皇誕生日に先立つ記者会見の感想。誕生日会見はこれが最後)
 「私は或る時に、A級が合祀され、その上、松岡、白取(原文のまま)までもが。筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが 松平の子の今の宮司がどう考えたのか、易々と 松平は平和に強い考があったと思うのに。親の心子知らずと思っている。だから、私はあれ以来、参拝していない。それが私の心だ」


靖国、相当の者も知らぬ。

■一九八八年
 五月十一日
 仏ミッテラン大統領再選に関して。
 (天皇)「(昭和)五十七年四月の来日の大統領への良い思い出。清子(紀宮)への夫人からのサヤコローズ。それを根分けして吹上(御所)に見事な花を、と」
 五月十九日
 ヒース元(英)首相のこと。
 (天皇)「訪欧時、英でEton(英国の名門校)を訪れた折に卒業式か何か覚えていないが、生徒に話したところ、代表で答辞を読んだ少年を覚えていた。後年、英首相として来日したヒースが『それは私でした』と懐かしがって話が弾んだ」
 (昭和天皇は皇太子時代の一九二一年、英国など欧州各国を歴訪した)
 五月二十日
 菊の間で午前十時二十五分―十一時二十分。
 (天皇)「しかし、政治の妙な動きに皇室が巻き込まれることのないようにという長官の強い考えは分かる。政治家が一つの信義に立って動き、純に考えてくれるならと思うが」
 (閣僚などの靖国神社に関する発言に関連して)
 (天皇)「靖国のことは多く相当の者も知らぬ。長官が何かの形でやってほしい」
 六月七日
 朝、御所で。(富田長官、天皇に長官退任の考えを)申し上げ。
 (天皇)「藤森(昭一・後任長官)次長もほとんど知らぬし、長官の考えも分かるが」
 (薔薇の間での赴任大使信任状奉呈式の間に)
 (天皇)「よく政治的に皇室が巻き込まれてはならないという長官の気持ちは十分わかるが、今夕四殿下と話してほしい」
 夕、四殿下と。基本的考え方。皇室と政治の分離について説明。藤森、宮尾(盤、後任次長)の人間性その他あわせて。
 (妃、現在の皇后さま)「浩宮の成婚を見てほしかった」
 (浩宮)「まだ早いと思うが、私の今後を見てほしいと思う」
 (富田)「一市民として出来ることはやり、お手伝いを」
 (皇太子、現在の天皇陛下)「分かりました。長いことご苦労様でした」
 (富田氏は六月十四日、宮内庁長官を退任し、参与となった)
 九月三十日
 (闘病中の昭和天皇の寝室で)
 (富田)「ご快癒を心よりお祈り申しております」
 (天皇)「ありがとう」「ところでね、富田ね。ヨーロッパはあるいはこれからだったか」
 (富田)「九月上旬、ロンドン外に参りましたが、礼宮殿下(現在の秋篠宮さま)ともしばしお話申しました。オクスフォードの生活にも馴染まれ、お元気とお見受けしました。また、浩宮殿下ご滞在であったマートンカレッジも拝見して参りました」
 (天皇)「そうか。ありがとう」
 約2分間。
(富田氏との最後の会話。昭和天皇は九月十九日吐血し、八九年一月七日崩御)




昭和天皇の言葉 富田メモから(1)「戦争、嫌な気持ち表現」――熟慮重ね思い示す。
2006/07/21, 日本経済新聞 朝刊

 靖国神社へのA級戦犯合祀(ごうし)に対する昭和天皇の強い不快感を記した故富田朝彦元宮内庁長官の日記・手帳(富田メモ)は、戦争や靖国参拝などについて立場上、真意を明らかにできない昭和天皇の言葉が多く残されている。天皇は若槻礼次郎首相の思い出を富田氏に話しながら、真意を伝えられない苦しい立場を重ね合わせていた。(1面参照)

 一九八八年五月九日付のメモには次のような天皇の言葉が記されている。
 「私は若槻首相のことをよく思い出す。米国会の悪いところと日本の国会の芳しくないところを合わせたのが今の(『当時の』の意味か)国会であり、議員であると。しかし、人の批判や非難は極力避けていた。昭和初年の厳しかったこと聞きたく、尋ねたことが折々あったが、話したがらず、専ら若いころ、日露戦争時ロンドンでの外債募集の折のことを話していた」
 若槻首相とは戦前に二度、首相を務めた若槻礼次郎。若槻首相は第一次内閣で金融恐慌(一九二七年)、第二次内閣で満州事変(一九三一年)に直面した。昭和天皇がいつの時点で若槻首相に尋ねたか不明だが、厳しい立場に立たされた首相の体験談を聞こうとしたとみられる。
 天皇は続けて富田元長官に語る。「今になって私もやっと若槻の気持ちがわかる。私にも戦争への気持ち、戦争責任の質問が多いが、現存の人もあり、なかなか言えぬ。だから、楽しかった欧(州)の旅のことを言うのだと思うよ」
 昭和天皇の靖国神社参拝は一九七五年十一月が最後。七八年のA級戦犯合祀以降、天皇が参拝しない理由を公式に語ることはなかった。
 合祀に対し不快感を示す言葉が残されていた八八年四月二十八日付のメモは、天皇誕生日(同月二十九日)に先立って行われた記者会見で、戦争への思いを質問されたことへの感想から始まっている。天皇にとって誕生日会見は自身の考えを表明する数少ない機会。メモからは、言葉にかなり神経を使っていたことが分かる。
 天皇は「何といっても大戦のことが一番嫌な思い出」と会見で答えたことについて、「戦争の感想を問われ、嫌な気持ちを表現したかった」と述べている。そして「嫌だ、と言ったのは(当時の閣僚の)靖国、中国への言及にひっかけて言ったつもりである」とも話している。
 八五年、当時の中曽根康弘首相が終戦記念日に靖国神社を公式参拝し、中国、韓国などが強く反発。八八年は戦争責任や靖国神社に関する閣僚発言が問題となっていた時期だった。昭和天皇は直接、論評はせず、「ひっかけて」答えようと意図していたことがうかがえる。
 「このところ靖国のこと、教科書問題などでお召し言上しきりである」(八六年七月二十三日付日記)との記述もある。公式に発言できない分、信頼する富田元長官に胸の内を語っていたのだろうか。
posted by 原始人 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | Report | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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